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トゥルーマン・ショー


「おはよう! そして会えなかったときのために、『今日は』と『今晩は』も!」


 ものすごーく観たかったのにもかかわらず結局劇場に足を運べずして終わってしまった『Dr.パルナサスの鏡』の監督の代表作とも言われるこの作品……とか書こうとしてましたが大ウソです。こちらの監督はピーター・ウィアー(『刑事ジョン・ブック/目撃者』等)、パルナサスの監督はテリー・ギリアム(『ブラザーズ・グリム』等)、全く違います。何を勘違いしてたのか、恥ずかしい。
 さて、こちらの『トゥルーマン・ショー』、名前は聞いていましたがなかなか観る機会がなく、やっと観ることが出来ました。  何の予備知識も無しに見たので、話の途中で「ああ、なるほどね!」となったので、勘の良い人は冒頭のインタビュー然とした映像で話の内容が分かってしまうかもしれません。遅かれ早かれ結局バレるので、あまり重要なことではないのかも。カメラワークに明るい人ならあるいはすぐ気付くでしょう。
 ストーリーの中盤で映画の「真実」が明るみにされるまで、じわじわと少しずつ観客にヒントが与えられていきます。それがなかなか面白い。以下にストーリーの概要を記しますが、何も知らずに観て驚きたい方は薄目でスルー! <ネタバレ>この『トゥルーマン・ショー』、実は映画の中に出てくるTV番組のタイトルにもなっています。主人公トゥルーマンの誕生から今の今まで、24時間一日も休まず、ひたすら衛星中継で彼の人生を放送していくというもの。トゥルーマンはそれを知らされることなく、5000台の監視カメラに囲まれ、全てが計算された(たまにイレギュラーもありますが)セット、シナリオの中で一生を終えるはずでした。彼が彼の住む世界、「シーヘヴン」に疑問を持つまでは……。</ネタバレ>
 というわけでかなりメタフィクション的な内容なんですが、誰しも「この人生は誰かによって操作された、作られたものかもしれない」という気持ちは持つと思いますし、その点でこの作品はいつかどこかで起こる、または起こっているかもしれないことを描いた一種の警告映画でもあるわけです。コメディ要素とシリアス要素、また感動要素と三拍子が上手い具合にミックスされているので、誰でも楽しんで見られると思います。主人公を演じるジム・キャリーの笑顔がまた良い。素敵。彼が笑うだけで画面が明るくなると言うか、こちらも笑えてくると言うか、とにかく彼の笑顔の破壊力は素晴らしいです。ストーリーの発想が今までになかなか無くて面白いのですが、同時に観終わった後少し怖くなりました。

 商品画像について、どれにしようか悩みましたが、お買い得なことと内容の充実を考えてこれにしました。ちょっとトゥルーマンがかっこつけすぎかなあとも思いましたが(笑) 他のDVDだとジム・キャリーのとても可愛らしい寝顔がジャケットになっております。

 次からはこの作品について色々と考察。


(2010.7.17)

※少し批判を含むかも




 ラストシーンがなかなか深いなあと思えるこの作品。「会えないなら――『今日は』と『今晩は』も!」と笑いながら境界線から一歩踏み出すトゥルーマン、あれは彼の最後の演技だったのでしょうか。全ての元凶でもあり自身の神にも近かったディレクター、クリストフ(エド・ハリス)の声には答えず、ただ丁寧に一礼して去っていく。そこで放送終了。呆然と何も映らない画面を見つめるクリストフの姿に、彼はトゥルーマンを息子のように愛していたのではないかと思う反面、これは自らのライフワークでもある番組の終了を余儀なくされ絶望する、一人のディレクターの姿なのではないかとも思います。そこの捉え方は人それぞれですね。
 船の転覆シーンからの一連の流れで彼の想いの一部分が垣間見えます。渋るスタッフを押し切りトゥルーマンの乗った船を嵐に襲わせ、セットの中から出ないよう、島に引き返すよう差し向ける。何としても船を転覆させようとするクリストフはディレクターとしてこの番組を終わらせたくない。ただし彼を海に溺れさせてしまうのは、彼の成長を見守ってきた父親としての部分が許さない。結局トゥルーマンは世界の果て――セットの終わりを表す壁に辿り着いてしまうのですが。トゥルーマンにある意味で裏切られたクリストフの表情が印象的です。
 「世界の果て」である扉の前で繰り広げられるクリストフとトゥルーマンの会話に納得する反面、結局明るいハリウッド的なラストで終わることにちょっとだけがっかりしました。がっかりと言うか、単になるほどと思っただけなんですが。実はトゥルーマンも番組のことは既に知っていて、実はキャストの一人でした、と、観客をもう一度びっくりさせるのもアリだったんじゃないかなあと。ただそうなるとこの作品の主旨が変わってきてしまう(ただの私生活を見せたがる変態男の話になってしまう)のでこれで良かったんでしょう。素人が口を挟むものではありません。
 ただ、トゥルーマンに世界の仕組みがバレてしまったのはクリストフの計画が穴だらけだったことが主な原因でしょう。舞台裏をもっときちんと隠しておけば、スタッフの内線をラジオの電波と混線させなければ、役に関しても医者役にきちんとした医者を、船の操縦士役には船の操縦士を当てていればこんなにボロが出なかったはずであり、何より妻があんなに露骨に広告を入れさえしなければ、失言さえしなければトゥルーマンは世界の秘密に気付かずに一生を終え、ショーもずっと続いていったに違いないのです。そうまでして入れなければならなかった広告の存在の大きさに、そら恐ろしいものまで感じますね。この話の舞台が現代でなく、全てがコンピュータやジオラマである近未来であったならあるいは、とも思います。

 そして気になるのが、作中での『トゥルーマン・ショー』に出ていた役者たちが本当に全員、演技をしていたのかということ。あれだけトゥルーマンと一緒に居て、あれだけ作品の中に取り込まれて、本当に全てが演技でいられるのでしょうか。例えばマーロン(ノア・エメリッヒ)。彼はトゥルーマンの幼馴染みという設定で、ほぼ同じくらいの時を『トゥルーマン・ショー』の中で過ごしています。いくらインカムで指示を受け取っていたからと言って、クリストフが全ての行動を全てのエキストラに指示するのは不可能に近く、出演者たちは自分の意思で動く場合もあったはずです。それで破綻が生じないということはつまり、彼等自身が『トゥルーマン・ショー』という作られた環境の中で無意識のうちに統制されていたのではないか、ということです。言われなくてもこの行動をする、という細やかなプログラミング。『トゥルーマン・ショー』の本当の被害者は、いくら見られていると言っても自分の意思で行動しているトゥルーマンではなく、全てシナリオの元で動かされていた周りの人間、エキストラたちなのではないでしょうか。これも裏を返せばトゥルーマンですら「シーヘヴン」という環境の元で誘導されるように動かされていたかもしれないという疑いが出てくるものの、彼には少なくとも「無知」という最大の自由が許されていたので統制はエキストラたちのそれに比べると軽いものでしょう。まあエキストラたちも常に舞台の中に居なければならないというわけではないでしょうから(エレベーター内でちらっと見えた舞台裏など)、そんなに深刻に考える必要もないのかなとも思います。どちらにしろ少し怖くなりますね。


 とにもかくにも映画はトゥルーマンの新しい人生を示唆する形で終わりました。彼の人生は一部しか見ていませんが、彼の「外での」人生に絶望が待っていないことを望みます。


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